文鮮明師 講演文

「祝福と永生」

「祝福と永生」

文鮮明師 講演文
"In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the word was God." John1:1

「祝福と永生」

(98.02.02 四千万双祝福勝利歓迎および文鮮明先生御言訓読大会)


 祝福と永生

 世界人類は、末世に暮らしています。なぜ今、世の中の家庭が壊れていくのでしょうか? 父や母、子女が怨讐になることもあります。なぜ、そのようになるのでしょうか?

 真の愛がないからです。いちばん重要である人間が永生することについて知らず、霊界があるのか、ないのかも分からずにいます。

 永生することを確信すれば、他の人に「罪を犯しなさい」と言われても、罪を犯すことはできません。「自分自身のために生きなさい」と言われても、そのように生きることはできません。これが分からなければ、キリスト教を信じていても、何か他の宗教を信仰していても、絶対に天国には行けないのです。

 この永生問題と連結されていなければ、社会革命も不可能です。現在よりもっと疲弊して没落した環境に陥れば、その場に行こうとする人はだれもいません。

 しかし、永生問題、永遠の生命の問題が分かれば、環境的な条件をすべて克服することができます。それゆえに、永生問題と連結している宗教は偉大なのです。永生という概念を確立して、それが事実であるということが分かれば、自分の息子、娘をはじめ家族を導くことができるのです。

 今まで宗教は、思想界も含めて、環境において習慣性で連結されてきた現在の文化の背景となったものを、全部消化できませんでした。なぜでしょうか? 永生という概念を確立できなかったからです。

 キリスト教も同様です。キリスト教も、今まで信仰をしてきたとしても、終わりの日になって、環境が変われば変わるほど、すべて混乱するようになります。なぜでしょうか?

 それは、永生という概念がないからです。永生問題について、自信がないのです。神様がいるのか、いないのかが分かりません。生命を懸けて環境を越えていくことができるのかといえば、皆その環境に合わせて、四方を見回しながら現在の生活の方便に従い、その道に陥って流されていっているのです。

 永生問題を知らなければならない理由は?

 信仰の道は、今生きている人生、すなわち肉身生活のためではなく、永遠の世界で生きるための準備である、という信念を持たなければなりません。人は四十歳を越え、五十歳を越え、年を取れば取るほど死が近づいてくるために、永生という概念について深刻になるのです。

 それゆえ、真なる宗教理念だけが、今後、世界を収拾することができるのです。邪悪な環境での乱れた変化が、どれほど頻繁に起こっているでしょうか? しかし、永生の概念さえ徹底していれば、頻繁に変わる環境を突破して越えていくことができるのです。いかなる場所でいかなる悲劇に直面しても、何ら問題になりません。

 神様は、真の愛の対象であるアダムとエバを、真の愛の道を通じて、真の愛のパートナーとして創られたのではありませんか? それは間違いありません。そのように創られたので、人間は真の愛の対象となって生きなければならないのです。それを言葉だけでなく、実感し、体恤しなければなりません。真の愛の力がどれほど偉大かということを感じるようになれば、「このような道を行かないように」と言われても、行くようになるのです。

 それゆえ、いつでも生活するときに力を注ぐべきことは、いかに永生の概念を持つかということです。それだけ持てば、すべて解決されるのです。青少年が永生の概念を深く理解すれば、心に強く響き、肉身まで同じ基準で一つになることができるのです。

 十六歳(数え年)以前は、アダムとエバが堕落する前なので、本性の基準が生きているため、本性の基準を百パーセント活用できるときです。それゆえ、青少年時代に神様を知らなければなりません。神様を知ることによって、自分と神様との不可避的な関係が分かるのです。その関係が、なぜ不可避かということを知るためには、永生の概念を知らなければならないのです。いつも、このことを考えなければなりません。

 一生と永生

 皆さんは、何歳まで生きられると思いますか? 皆さん全員、「七、八十年は生きるだろう」と、思っていませんか? それ以前に死ぬとは思わないことでしょう。

 自分が八十歳で死ぬとか、百歳になったら死ぬだろうと固く信じていたとしても、きょう、あす死ぬかも分からないのです。食事の途中に死ぬか、今夜、帰宅して眠っている間に死ぬかもしれません。皆さんは、「私は若いので、これから少なくとも四十年、五十年は生きる」という願いを持っていませんか? そのことを神様が保証してくださいますか?

 皆さんは、できるだけ早く、一年以内に死ぬものと考えてください。そのように考えて、できるだけ短く見積もるほど、損害を被らないで幸福に生きることができるのです。短い期間に誠を尽くして準備したとすれば、その内容が、自らの永遠の生命の土台になるのです。

 では、その短い期間に、神様を愛したことがあるでしょうか? 神様と一つになって神様と愛し合いたいのに、愛することができないのです。神様は、「愛しなさい」と言われます。この世に生きている間、二十四時間、精誠を尽くして、多くの人の中で一人でも多くの人を、神様の前に導いてください。そのように生きれば、それが永遠の生命の財産になります。

 では、皆さんは、何歳まで生きたいと思いますか? 神様の命令で、今すぐ死ぬ立場に出ていかなければならないとするならば、どのようにしますか? そうなったとすれば、何かを残すべきです。天が自分を称賛することのできる何かを残すべきですが、自信があるでしょうか? そのように考えれば、寝る時間が惜しく、食べる時間が惜しく思われるのです。心配する暇もありません。

 一生と永遠について考えてみるとき、その一生を短く考えるほど価値があるのです。個人、家庭、氏族をどれほど愛したことがありますか?

 どうして、個人、家庭、氏族を愛するのでしょうか? それらを愛することは、全人類を愛するための教材です。彼らを愛することは、全体を愛するための教材を愛することです。そうすることは絶対に、私たちの一生において、マイナスにならないことです。極めて知恵深い考えなのです。

 永遠の生命を追求する人間

 永遠の生命の世界を追求するのが、信仰生活です。信仰は、また永遠の神様の愛を追求します。永遠の生命と愛とを一致させるために、神様の喜びと自分の喜びが出合い、一つの喜びとして感じることができる帰着点を見いだすのが、信仰の道です。それで、信仰生活をする私たちは、どれほど前進的な愛と生命力を持って生きるかが、何よりも重要なことです。

 私たちが五官を通して感じる感覚の一切を統合して、生命と真の愛とどの程度の関係を結んで生きるかによって、人間としての価値が左右されるのです。それゆえ、私たち自身が生命力と真の愛の心を持ち、どのように対人関係を築いて社会生活をしてきたかという問題を、再び考えざるを得ないのです。もし、それができなかったとすれば、それは停止するか、後退することを知らなければなりません。

 人は一生だけでなく、永生するのです。今まで地球で、宗教はなくなることなく、文化の背景と風習が異なるあらゆる環境の中でも、世界的な版図を拡大させてきました。それは、人は一生が問題ではなく、永生しなければならないからです。

 人はこの時代でのみ生きるのではなく、宇宙とともに生活しなければなりません。人の一生は百年以内の短いものですが、それを最後として、すべてが終わってしまうのではありません。その限界線を克服すれば、地球村の生活を超え、超越した場で生存し続けることができるのです。

 そのような世界は厳然と実在します。もし、そのような世界がなかったとしても、今まで苦痛の中で呻吟しながら生きてきた人類に対して同情し、助けなければなりません。そのためには、仮想的な永生論を主張し、仮想的な神様を中心とした理想国家形態を考えなければならないのです。そのような面からも、宗教が必要です。

 しかし、仮想的に考えられた宗教理想であるということを知って、満足する人がいるでしょうか? 「実在する」と、断定できなければなりません。「実在する」というのは、自分が決めるのではありません。「実在する」ということは、永遠の昔から決められているのです。根本から「そうだ7」と言えるところまで、明らかにしなければならないのです。それで、皆さんの永生問題とともに、宗教問題を中心とした、神様の問題まで解決しなければなりません。このような諸般の問題が連結されています。

 永生すべき理由

 神様は、人をどのような存在として創られたのでしょうか? 神様の絶対、唯一の価値をもつ、真の愛の相対者として創られたのです。人間の生命の価値は、どれほどでしょうか? お金で計れるような無価値な人間ではありません。神様の前では、宇宙と取り替えることのできない高貴な価値を持っています。真の愛の相対圏として、男性を創られ、女性を創られたという驚くべき事実を知らなければなりません。

 人間は、真の愛から生まれ、真の愛によって生き、真の愛によって死んでいきます。しかし、ただ死んでいくのではありません。主体であられる神様が永遠、不変、唯一であられるので、その対象的な真の愛の立場に立つときには、永生するのです。永生という理論は、ここから出発するのです。生命から始まるのではありません。

 今日、この地上で本当に真なる人とは、どのような人でしょうか? 神様と内外共に一体となって、子女の立場で完全に真の愛を受けることのできる人です。そのような人々が、神様と共に暮らす生活が、真の人生です。

 人はだれもが最高を願っています。人間が最高の立場にいれば、神様は自分のものです。また、自分は神様のものです。そのようになれば、自分は神様の子女となり、神様ご自身と一つになることができるので、宇宙は自分のものとなります。

 では、神様が最も愛する、大切なものがあるとすれば、それを一日、あるいは十年、百年間、用いたのちに、投げ捨ててしまうように創られたのではありません。永遠に共にあるように創られたのです。人間も同様です。人間は生まれて死ねば、それで終わるのではなく永生するのです。何故、永生するのでしょうか? 人間は、絶対者であられる神様が、真の愛を中心として、喜びの対象として創られたからです。

 皆さんは、漠然とですが、永生を願っています。自分のところに貴い物があれば、避難するときにそれを持っていきます。そして、それを誇りにします。それを一日、二日誇って、やめるのではありません。自分が死ねば、それを後代に永遠に残すことを願います。

 それは、神様も同じです。神様が永生される絶対者であられれば、そのかたが愛される対象も永生しなければなりません。ですから、人々は昔から永生することを願うのです。それゆえ、絶対者であられる神様は、永生する価値を持った、愛する子女を捜さざるを得ないのです。

 私たち人間は、神様が創られた傑作品として、神様に似るように創られました。神様が永遠であられるため、私たちも永遠の性稟が必要です。それで、私たちの心は年を取らないのです。

 人間は永生してこそ、その傑作品としての存在価値を持つことができます。人間は霊的存在なので永生しなければなりません。

 創造主の永遠の愛のパートナー

 永生の論理をどこから探すことができるでしょうか? 神様は、知恵深いおかたです。もし、神様の愛の理念がなかったならば、神様は孤独なひとり身であり、喜怒哀楽を感じることができないでしょう。

 絶対的な愛を失われた神様は、歴史以来、だれも体験することのできない、深刻で、悲惨な立場に立っておられます。永遠に、だれも慰めることができません。本然の息子、娘を犠牲にして、それで満足されるのではありません。ご自身の願いである真の愛の理想的パートナーを再現させて、彼らを抱き、あちこちと移動しながら、さらに輝くように着飾らせて、最高に美しくして誇りたいのです。万宇宙を彼らのために創られたのです。

 大気圏が絶対低気圧圏になれば、高気圧圏が生じて、自動的に循環運動が起こります。神様は、真の知恵の王様です。何故、投入して忘れなければならないのでしょうか? 自動的循環原理を通して、永遠の回転が始まるので、永生論理が設定されるのです。

 投入し、投入し、また投入するところに、永生の論理が展開されるのです。為に生きれば、滅びることはありません。小さいものから大きいものに成長して、大きいものがその次にはどこに行くかといえば、内に入って核となるのです。

 神様が絶対的な真の愛のパートナーを求めるとすれば、だれをパートナーにされるのでしょうか? それは、間違いなく人間です。それゆえ、「万物之衆、唯人最貴(万物の中でひとえに人間が最も尊い)」という言葉が出てきたのです。ここから、創造主の永遠なる真の愛のパートナーになったとき、そのパートナーは永生するという論理が出てくるのです。永生というのは、自動的な産物です。永生は、ここから始まるのです。

 真の愛の関係を中心として、永生論理をいかに確立するかという問題は、宗教で極めて大切なことです。男性、女性に永生があるのではありません。神様の真の愛に、永生があるという結論が出てくるのです。

 真の愛によってのみ救援が可能

 今日のキリスト教徒たちは、「イエスを信じれば永生する」と言います。言葉では、素晴らしいことです。それならば、なぜ永生するのかと尋ねれば、「そのようになっているのです」と言います。永生とは、作用が継続しなければなりません。その人生の道を永遠に行くことができなければならないのです。そのためには、心臓の動脈や静脈のような循環器官、神経系統、大脳、小脳のすべてが、正常に動かなければならないのです。そうするためには、莫大な消耗がなされます。

 なぜ永生するのかと尋ねられれば、皆さんは、どのように答えますか? イエス様を信じれば、永生し、救われますか? とんでもありません。真の愛によってのみ、救いを受けるのです。神様の創造原則から見れば、真なる人だけが神様の真の愛の同伴者です。真の愛を持てば、永遠に生きられるようになっています。真の愛の圏内に入れば、霊界や地上において、自分がどこで暮らすべきかすべて分かるようになります。

 皆さん、大洋を往来する大きな船に遭難する危険が生じれば、その船中で暮らしていたネズミが、全部ロープをつたって陸地へ逃げるという話を聞いたことがありますか? 微々たる存在に過ぎない動物でも、未来の生死を判断することを知っているのに、万物の霊長である人間は、そうではありません。

 これは、堕落のゆえです。この堕落の環境からどのように抜け出すかという問題は、すなわち悪魔の愛と生命と血統から、どのように解脱するかという問題です。「解脱」という言葉は、抜け出すということです。完全に抜け出して、関係のない立場、自主的な立場に立つという言葉です。

 永生に必要な観念

 自分は永生し、真の愛を実践する人です。自分がここで何かをしていても、工場で仕事をしていても、それは、永生を延長することのできる材料です。自分がする仕事は、永生のための訓練であり、その訓練の材料を生産するものであると考えなければなりません。皆さんに、永生と真の愛は、永遠に必要なのです。

 真の愛と直結している永生

 私たちは永遠、永生を願います7 永生を願うのですが、変わらないものは何でしょうか? 真の愛です。ほかのものは、皆変わります。環境的に変わるのです。それでは、何故、真の愛は変わらないのでしょうか? 真の愛は、すべての生命力の中心であるからです。

 また、真の愛は、理想的な要件の中心位置を占めているからです。中心は、その周囲がすべてなくならない限り、なくなりません。真の愛は、宇宙の中心であり、神様を中心とした真の愛と一致しているので、神様がとどまっておられる限り、残ることができるのです。

 真の愛とは何でしょうか? 皆さんが結婚するとき、結婚相手は自分より優れていることを願います。自分の子女が、自分より優れていることを願わない人がどこにいるでしょうか? それはだれに似たのでしょうか? 神様に似たのです。それはどういうことかといえば、神様も愛の相対は、自分より優れていることを願われるのです。

 絶対的な神様が人類の父であるなら、その父が絶対に行わないことを、その子女に必ず行うようにと命令することができるでしょうか? 命令することはできません。神様も真の愛の対象が、自分より優れていることを願われるという原則から見ると、人間の価値は最大です。真の愛を中心として、神様より貴い価値があるということです。それゆえ、皆さんの心は、最高のものを願うのです。

 真の愛によって永生が可能

 天上の高く貴い立場から、この宇宙を見つめ、管理、主導するようになっているのであって、ほかの何かに服従するようにはなっていません。皆さんの心は解放されています。だれの支配も受けたがりません。これは万人平等です。真の愛の位置にいれば、神様の位置、天国の宝座に自由に行くことができるのです。神様の友となれるのです。

 真の愛ゆえに、人間を創られたとき、永生される神様であられるので、その真の愛に一致した人間が永生するということは、自然な論理です。それゆえ、永生するためには、その真の愛の圏内で暮らさなければなりません。

 真の愛によって、永生が可能です。何故でしょうか? 創造の出発、動機、過程からすべての目的が、真の愛を中心として完成されるからです。過程を通じて結果が出てくるのです。

 自分の心と体の完成は、真の愛によって可能になるのです。無限の根本、原因から過程、それによって理想の実を結ぶものは、真の愛しかありません。真の愛によって、神様も永存されるのです。永生の環境をなすには、真の愛の環境を中心として生活しなければなりません。真の愛の実体圏は、真の愛を中心として、実体的に体恤しなければならないのです。

 神様・永生・真の愛を知るべき

 皆さんは、神様が霊界のどこにおられるかを、はっきりと知りません。皆さんは、神様の絶対的なセンター、愛のセンターという観念をはっきり知らなければなりません。その真の愛の力は、もっとも速い真の愛の力なのです。その真の愛は、直短距離を通ります。

 何故、文先生がこのようなことを教え、強調するのでしょうか? 神様を知り、永遠の世界を知っているからです。神様を知り、永遠の世界を知れば、自分勝手に生きることができません。

 第一に、神様を知らなければなりません。第二に、永生を知り、第三に、真の愛を知らなければなりません。百パーセント以上投入するところに、永生があります。真の愛を持たなければ、永生はありません。永生できない人は、神様に出会うことができません。

 今後、世界をどのように収拾するのでしょうか? 第一に利他主義、第二に真の愛、第三に永生です。これで世界が収拾されるのです。これの反対は、利己主義です。これはサタン側と通じるのです。

 真の愛は、自分の生命以上に投入しなければ生まれません。レバレンド・ムーンがアメリカに行って、生命と財産と統一教会のあらゆるものを投入し精誠を尽くしました。ここから、真の愛が成り立つのです。真の愛が成立しなければ、永生はあり得ないのです。

 何故でしょうか? 皆さんの悪の生命の起源は、サタンの血統です。サタンに属するのです。愛もサタンの愛です。

 ですから、聖書では「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。これが第一の戒めである」とあります。この言葉は何でしょうか? 「心を尽くし、精神を尽くし」というのは、生命までささげなさいということです。これが第一の戒めです。

 第二の戒めは、「自分を愛するように隣り人を愛せよ」というものです。すなわち、生命を懸けて、真の愛で愛しなさいということです。生命を投入しなければならないということです。

 なぜ、生命を懸けなければならないのでしょうか? 生命を懸けなければ、第一に、サタンを屈伏させることができません。第二に、サタンの環境から抜け出すことができません。第三に、サタンの血統を断ち切ることができません。この三つです。サタンの環境は抜け出せるとしても、サタンの血統はどうすることもできません。真の愛は、生命を超越するものです。

 真の愛と関係した死後の世界

 神様には、時間という概念がありません。それは、永遠に終わりであると同時に、初めであるということです。過去も、現在も、未来も同じであるということです。そのようであったとしても、反発せずに作用を引き起こし、神様が安息することのできる土台とは何でしょうか?

 それは、神様の全知全能をもってしてもできません。神様の真の愛のみが可能なのです。神様も、「真の愛7」と言えば「そうだ7」と言うのです。それ以外は、神様にとって必要ないのです。

 私たちは、最終的にどこに行くのでしょうか? 霊界です。大概の人は、死後の世界であると言いますが、そうではありません。何故ならば、霊界は、真の愛と関係している世界だからです。真なる愛を中心として出発したものなので、自分が真なる愛の立場に立っているときは、そこがまさに霊界なのです。それゆえ、真の愛は偉大なのです。

 真の愛によって縦的な球形運動をすることによってのみ、上下、前後、左右が和合できます。縦横が和合できなければ、上下、前後、左右全体が和合できません。統一がなされません。真の愛によってのみ、統一が可能なのです。それゆえ、統一教会が真の愛を中心とした統一理想世界を論ずるのも、原理観に一致した結論です。

 神様が人間を導いてくださろうとするのです。神様も、真の愛を呼吸されます。神様も宇宙のリズムに合わせておられるので、真の愛を中心として宇宙が永遠に続くのです。真の愛があるところに永生があるのです。ですから皆さんも、そこまで行かなければなりません。そうしてこそ、神様の呼吸圏内に入っていくことができるのです。

 真の愛も息をします。宇宙の脈拍がそのようになっているので、男性も女性も、真の愛を好むのです。リズムが合ったときは、真に愛し合わなければなりません。すべてが、神様を中心とした一つの方向なのです。

 「祝福」の門を通過して天国へ

 霊界も肉界も、愛に従って動きます。縦的な真なる愛の主軸を中心として、環境的条件は自ら自動的にリズムを合わせるのです。

 過去の人も、現在の人も、永遠性を持つための資格は何でしょうか? 人間世界で必要とするあらゆる欲求の要因は何でしょうか? それは真の愛です。でたらめな愛ではなく、真の愛です。

 真の愛とは、縦横に通して九〇度どこに合わせても、角度が合わなければなりません。東洋の家、西洋の家、南の家、北の家、どんな家にも合い、五色人種、文化背景、各宗教の背景が違ったとしても、この道を共に行くことができてこそ、真の愛です。

 今日、この世の中には多くの人々が暮らしています。しかし、統一教会で言う「祝福」の意味を知っている人は、多くいません。「祝福」という言葉は、統一教会で始まったものであり、その「祝福」という言葉を中心として、今まで祝福結婚の行事をしてきました。

 これから、人類はどこに行くべきなのでしょうか? 全人類は「祝福」の門を通らなければ、天国に行くことができません。多くの人々はキリスト教を信じていますが、その人々も「祝福」という門を通らずには、天国に行くことができないのです。

 このようにいえば、キリスト教では、「統一教会のレバレンド・ムーンは、独善的な発言をする」と不平を言います。このように言う人もいるかもしれませんが、それはその人たちの言うことであって、統一教会でいう「祝福結婚」は、堕落した人類が必ず行かなければならない道なのです。どれほど反対したとしても、霊界と肉界を連結して、天国に入らなければなりません。重大な問題は、この「祝福結婚」というものです。

 今日、一般の宗教を信じる人は、「救い」というと、個人の救いを考えます。「良く信じれば、自分は天国に行く」と信じている立場です。しかし、本来の神様の理想から見ると、天国は一人で行くようにはなっていません。

 夫婦の霊人体

 私たちは、真の愛の理想を求めていく群れです。ですから、霊界の代弁者として立つために、真の愛の理想をどれほど横的な世界に植えて、種として蒔くかが問題です。そこで真の愛の心で互いに授け受けしながら育つのです。

 このようにして、真の愛の実を結んで、その夫婦が霊界に行くとき、神様の永遠なる真の愛の圏内に抱かれ、神様と一つの体となります。

 人はこの地上で、肉身は老いていきますが、夫婦生活をして、真の愛で愛し合えば愛し合うほど、霊人体は若くなります。これはどのような話かといえば、人間は長く生きれば生きるほど、内的な人間である霊人体は、最高に円熟した美男、美女になるということです。肉身という殻は、古着のように脱がなければならないのに、これが老いずにいたならどうなるでしょうか?

 それで年を取れば、外側の殻は、すべてだめになりますが、内的な中身は堅くなって未来の相続者となり、美しい人間になるのです。秋に実る栗の実のようになります。

 結婚はなぜしなければならないか?

 神様を直接愛する前に、皆さんの目の前にある、食べる物、物質、万物を愛し、皆さんの体を愛さなければなりません。万物を愛し、その要素を吸収することによって、自分の体を愛するようになるのです。

 皆さんの第一の父母は、皆さんを生んでくれた父母であり、第二の父母は地球です。この地上です。皆さんは、肉身が成長できるように、地上からその要素を供給されます。地上が肉身の第二の父母です。第二の父母を経て、第三の父母のところに帰っていくのが「死」という過程です。

 第三の父母のところに行く場合は、そのままで行くのではありません。第三の父母のところに帰るためには、本来の父母であられる神様の姿に似なければなりません。

 したがって、なぜ結婚をするのかといえば、神様の姿に似るためです。神様は、二性性相の二性が、合体した一体的な存在であられます。その神様の分性的人格自体が男性と女性であるので、彼らが合性一体化して種のようになって、神様の本性の立場に帰らなければならないのです。

 しかし、その種を連結させるためには、真の愛の道理である結婚を通じなければなりません。生まれるときも、成長するときにも、生活するときも、真の愛を中心として生き、どこへ行くとしても、真の愛に帰るために行かなければならないのです。

 真の愛のために結婚を願うのでなければ、永生の方向が違ってくるようになるということを、皆さんは知らなければなりません。

 真の父母から始まる祝福と永生

 祝福結婚と永生は、真の父母から始まります。真の父母と真の愛で一体となることは、個人、家庭、国家、世界、天宙が完成し、神様の創造理想が完結することです。真の父母が生まれた所が人類の祖国となり、地上天国と天上天国の出発地となり、神様の全権時代を迎えるようになります。

 ですから滅びることはなく、全盛時代へと発展するのです。大韓民国の民は「訓読会」を通して、真の父母と超国家的に一体となって、万国の勝利圏を備え、万国の祖国にならなければなりません。アーメン。文鮮明師 講演文
"In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the word was God." John1:1

「祝福と永生」

(98.02.02 四千万双祝福勝利歓迎および文鮮明先生御言訓読大会)


 祝福と永生

 世界人類は、末世に暮らしています。なぜ今、世の中の家庭が壊れていくのでしょうか? 父や母、子女が怨讐になることもあります。なぜ、そのようになるのでしょうか?

 真の愛がないからです。いちばん重要である人間が永生することについて知らず、霊界があるのか、ないのかも分からずにいます。

 永生することを確信すれば、他の人に「罪を犯しなさい」と言われても、罪を犯すことはできません。「自分自身のために生きなさい」と言われても、そのように生きることはできません。これが分からなければ、キリスト教を信じていても、何か他の宗教を信仰していても、絶対に天国には行けないのです。

 この永生問題と連結されていなければ、社会革命も不可能です。現在よりもっと疲弊して没落した環境に陥れば、その場に行こうとする人はだれもいません。

 しかし、永生問題、永遠の生命の問題が分かれば、環境的な条件をすべて克服することができます。それゆえに、永生問題と連結している宗教は偉大なのです。永生という概念を確立して、それが事実であるということが分かれば、自分の息子、娘をはじめ家族を導くことができるのです。

 今まで宗教は、思想界も含めて、環境において習慣性で連結されてきた現在の文化の背景となったものを、全部消化できませんでした。なぜでしょうか? 永生という概念を確立できなかったからです。

 キリスト教も同様です。キリスト教も、今まで信仰をしてきたとしても、終わりの日になって、環境が変われば変わるほど、すべて混乱するようになります。なぜでしょうか?

 それは、永生という概念がないからです。永生問題について、自信がないのです。神様がいるのか、いないのかが分かりません。生命を懸けて環境を越えていくことができるのかといえば、皆その環境に合わせて、四方を見回しながら現在の生活の方便に従い、その道に陥って流されていっているのです。

 永生問題を知らなければならない理由は?

 信仰の道は、今生きている人生、すなわち肉身生活のためではなく、永遠の世界で生きるための準備である、という信念を持たなければなりません。人は四十歳を越え、五十歳を越え、年を取れば取るほど死が近づいてくるために、永生という概念について深刻になるのです。

 それゆえ、真なる宗教理念だけが、今後、世界を収拾することができるのです。邪悪な環境での乱れた変化が、どれほど頻繁に起こっているでしょうか? しかし、永生の概念さえ徹底していれば、頻繁に変わる環境を突破して越えていくことができるのです。いかなる場所でいかなる悲劇に直面しても、何ら問題になりません。

 神様は、真の愛の対象であるアダムとエバを、真の愛の道を通じて、真の愛のパートナーとして創られたのではありませんか? それは間違いありません。そのように創られたので、人間は真の愛の対象となって生きなければならないのです。それを言葉だけでなく、実感し、体恤しなければなりません。真の愛の力がどれほど偉大かということを感じるようになれば、「このような道を行かないように」と言われても、行くようになるのです。

 それゆえ、いつでも生活するときに力を注ぐべきことは、いかに永生の概念を持つかということです。それだけ持てば、すべて解決されるのです。青少年が永生の概念を深く理解すれば、心に強く響き、肉身まで同じ基準で一つになることができるのです。

 十六歳(数え年)以前は、アダムとエバが堕落する前なので、本性の基準が生きているため、本性の基準を百パーセント活用できるときです。それゆえ、青少年時代に神様を知らなければなりません。神様を知ることによって、自分と神様との不可避的な関係が分かるのです。その関係が、なぜ不可避かということを知るためには、永生の概念を知らなければならないのです。いつも、このことを考えなければなりません。

 一生と永生

 皆さんは、何歳まで生きられると思いますか? 皆さん全員、「七、八十年は生きるだろう」と、思っていませんか? それ以前に死ぬとは思わないことでしょう。

 自分が八十歳で死ぬとか、百歳になったら死ぬだろうと固く信じていたとしても、きょう、あす死ぬかも分からないのです。食事の途中に死ぬか、今夜、帰宅して眠っている間に死ぬかもしれません。皆さんは、「私は若いので、これから少なくとも四十年、五十年は生きる」という願いを持っていませんか? そのことを神様が保証してくださいますか?

 皆さんは、できるだけ早く、一年以内に死ぬものと考えてください。そのように考えて、できるだけ短く見積もるほど、損害を被らないで幸福に生きることができるのです。短い期間に誠を尽くして準備したとすれば、その内容が、自らの永遠の生命の土台になるのです。

 では、その短い期間に、神様を愛したことがあるでしょうか? 神様と一つになって神様と愛し合いたいのに、愛することができないのです。神様は、「愛しなさい」と言われます。この世に生きている間、二十四時間、精誠を尽くして、多くの人の中で一人でも多くの人を、神様の前に導いてください。そのように生きれば、それが永遠の生命の財産になります。

 では、皆さんは、何歳まで生きたいと思いますか? 神様の命令で、今すぐ死ぬ立場に出ていかなければならないとするならば、どのようにしますか? そうなったとすれば、何かを残すべきです。天が自分を称賛することのできる何かを残すべきですが、自信があるでしょうか? そのように考えれば、寝る時間が惜しく、食べる時間が惜しく思われるのです。心配する暇もありません。

 一生と永遠について考えてみるとき、その一生を短く考えるほど価値があるのです。個人、家庭、氏族をどれほど愛したことがありますか?

 どうして、個人、家庭、氏族を愛するのでしょうか? それらを愛することは、全人類を愛するための教材です。彼らを愛することは、全体を愛するための教材を愛することです。そうすることは絶対に、私たちの一生において、マイナスにならないことです。極めて知恵深い考えなのです。

 永遠の生命を追求する人間

 永遠の生命の世界を追求するのが、信仰生活です。信仰は、また永遠の神様の愛を追求します。永遠の生命と愛とを一致させるために、神様の喜びと自分の喜びが出合い、一つの喜びとして感じることができる帰着点を見いだすのが、信仰の道です。それで、信仰生活をする私たちは、どれほど前進的な愛と生命力を持って生きるかが、何よりも重要なことです。

 私たちが五官を通して感じる感覚の一切を統合して、生命と真の愛とどの程度の関係を結んで生きるかによって、人間としての価値が左右されるのです。それゆえ、私たち自身が生命力と真の愛の心を持ち、どのように対人関係を築いて社会生活をしてきたかという問題を、再び考えざるを得ないのです。もし、それができなかったとすれば、それは停止するか、後退することを知らなければなりません。

 人は一生だけでなく、永生するのです。今まで地球で、宗教はなくなることなく、文化の背景と風習が異なるあらゆる環境の中でも、世界的な版図を拡大させてきました。それは、人は一生が問題ではなく、永生しなければならないからです。

 人はこの時代でのみ生きるのではなく、宇宙とともに生活しなければなりません。人の一生は百年以内の短いものですが、それを最後として、すべてが終わってしまうのではありません。その限界線を克服すれば、地球村の生活を超え、超越した場で生存し続けることができるのです。

 そのような世界は厳然と実在します。もし、そのような世界がなかったとしても、今まで苦痛の中で呻吟しながら生きてきた人類に対して同情し、助けなければなりません。そのためには、仮想的な永生論を主張し、仮想的な神様を中心とした理想国家形態を考えなければならないのです。そのような面からも、宗教が必要です。

 しかし、仮想的に考えられた宗教理想であるということを知って、満足する人がいるでしょうか? 「実在する」と、断定できなければなりません。「実在する」というのは、自分が決めるのではありません。「実在する」ということは、永遠の昔から決められているのです。根本から「そうだ7」と言えるところまで、明らかにしなければならないのです。それで、皆さんの永生問題とともに、宗教問題を中心とした、神様の問題まで解決しなければなりません。このような諸般の問題が連結されています。

 永生すべき理由

 神様は、人をどのような存在として創られたのでしょうか? 神様の絶対、唯一の価値をもつ、真の愛の相対者として創られたのです。人間の生命の価値は、どれほどでしょうか? お金で計れるような無価値な人間ではありません。神様の前では、宇宙と取り替えることのできない高貴な価値を持っています。真の愛の相対圏として、男性を創られ、女性を創られたという驚くべき事実を知らなければなりません。

 人間は、真の愛から生まれ、真の愛によって生き、真の愛によって死んでいきます。しかし、ただ死んでいくのではありません。主体であられる神様が永遠、不変、唯一であられるので、その対象的な真の愛の立場に立つときには、永生するのです。永生という理論は、ここから出発するのです。生命から始まるのではありません。

 今日、この地上で本当に真なる人とは、どのような人でしょうか? 神様と内外共に一体となって、子女の立場で完全に真の愛を受けることのできる人です。そのような人々が、神様と共に暮らす生活が、真の人生です。

 人はだれもが最高を願っています。人間が最高の立場にいれば、神様は自分のものです。また、自分は神様のものです。そのようになれば、自分は神様の子女となり、神様ご自身と一つになることができるので、宇宙は自分のものとなります。

 では、神様が最も愛する、大切なものがあるとすれば、それを一日、あるいは十年、百年間、用いたのちに、投げ捨ててしまうように創られたのではありません。永遠に共にあるように創られたのです。人間も同様です。人間は生まれて死ねば、それで終わるのではなく永生するのです。何故、永生するのでしょうか? 人間は、絶対者であられる神様が、真の愛を中心として、喜びの対象として創られたからです。

 皆さんは、漠然とですが、永生を願っています。自分のところに貴い物があれば、避難するときにそれを持っていきます。そして、それを誇りにします。それを一日、二日誇って、やめるのではありません。自分が死ねば、それを後代に永遠に残すことを願います。

 それは、神様も同じです。神様が永生される絶対者であられれば、そのかたが愛される対象も永生しなければなりません。ですから、人々は昔から永生することを願うのです。それゆえ、絶対者であられる神様は、永生する価値を持った、愛する子女を捜さざるを得ないのです。

 私たち人間は、神様が創られた傑作品として、神様に似るように創られました。神様が永遠であられるため、私たちも永遠の性稟が必要です。それで、私たちの心は年を取らないのです。

 人間は永生してこそ、その傑作品としての存在価値を持つことができます。人間は霊的存在なので永生しなければなりません。

 創造主の永遠の愛のパートナー

 永生の論理をどこから探すことができるでしょうか? 神様は、知恵深いおかたです。もし、神様の愛の理念がなかったならば、神様は孤独なひとり身であり、喜怒哀楽を感じることができないでしょう。

 絶対的な愛を失われた神様は、歴史以来、だれも体験することのできない、深刻で、悲惨な立場に立っておられます。永遠に、だれも慰めることができません。本然の息子、娘を犠牲にして、それで満足されるのではありません。ご自身の願いである真の愛の理想的パートナーを再現させて、彼らを抱き、あちこちと移動しながら、さらに輝くように着飾らせて、最高に美しくして誇りたいのです。万宇宙を彼らのために創られたのです。

 大気圏が絶対低気圧圏になれば、高気圧圏が生じて、自動的に循環運動が起こります。神様は、真の知恵の王様です。何故、投入して忘れなければならないのでしょうか? 自動的循環原理を通して、永遠の回転が始まるので、永生論理が設定されるのです。

 投入し、投入し、また投入するところに、永生の論理が展開されるのです。為に生きれば、滅びることはありません。小さいものから大きいものに成長して、大きいものがその次にはどこに行くかといえば、内に入って核となるのです。

 神様が絶対的な真の愛のパートナーを求めるとすれば、だれをパートナーにされるのでしょうか? それは、間違いなく人間です。それゆえ、「万物之衆、唯人最貴(万物の中でひとえに人間が最も尊い)」という言葉が出てきたのです。ここから、創造主の永遠なる真の愛のパートナーになったとき、そのパートナーは永生するという論理が出てくるのです。永生というのは、自動的な産物です。永生は、ここから始まるのです。

 真の愛の関係を中心として、永生論理をいかに確立するかという問題は、宗教で極めて大切なことです。男性、女性に永生があるのではありません。神様の真の愛に、永生があるという結論が出てくるのです。

 真の愛によってのみ救援が可能

 今日のキリスト教徒たちは、「イエスを信じれば永生する」と言います。言葉では、素晴らしいことです。それならば、なぜ永生するのかと尋ねれば、「そのようになっているのです」と言います。永生とは、作用が継続しなければなりません。その人生の道を永遠に行くことができなければならないのです。そのためには、心臓の動脈や静脈のような循環器官、神経系統、大脳、小脳のすべてが、正常に動かなければならないのです。そうするためには、莫大な消耗がなされます。

 なぜ永生するのかと尋ねられれば、皆さんは、どのように答えますか? イエス様を信じれば、永生し、救われますか? とんでもありません。真の愛によってのみ、救いを受けるのです。神様の創造原則から見れば、真なる人だけが神様の真の愛の同伴者です。真の愛を持てば、永遠に生きられるようになっています。真の愛の圏内に入れば、霊界や地上において、自分がどこで暮らすべきかすべて分かるようになります。

 皆さん、大洋を往来する大きな船に遭難する危険が生じれば、その船中で暮らしていたネズミが、全部ロープをつたって陸地へ逃げるという話を聞いたことがありますか? 微々たる存在に過ぎない動物でも、未来の生死を判断することを知っているのに、万物の霊長である人間は、そうではありません。

 これは、堕落のゆえです。この堕落の環境からどのように抜け出すかという問題は、すなわち悪魔の愛と生命と血統から、どのように解脱するかという問題です。「解脱」という言葉は、抜け出すということです。完全に抜け出して、関係のない立場、自主的な立場に立つという言葉です。

 永生に必要な観念

 自分は永生し、真の愛を実践する人です。自分がここで何かをしていても、工場で仕事をしていても、それは、永生を延長することのできる材料です。自分がする仕事は、永生のための訓練であり、その訓練の材料を生産するものであると考えなければなりません。皆さんに、永生と真の愛は、永遠に必要なのです。

 真の愛と直結している永生

 私たちは永遠、永生を願います7 永生を願うのですが、変わらないものは何でしょうか? 真の愛です。ほかのものは、皆変わります。環境的に変わるのです。それでは、何故、真の愛は変わらないのでしょうか? 真の愛は、すべての生命力の中心であるからです。

 また、真の愛は、理想的な要件の中心位置を占めているからです。中心は、その周囲がすべてなくならない限り、なくなりません。真の愛は、宇宙の中心であり、神様を中心とした真の愛と一致しているので、神様がとどまっておられる限り、残ることができるのです。

 真の愛とは何でしょうか? 皆さんが結婚するとき、結婚相手は自分より優れていることを願います。自分の子女が、自分より優れていることを願わない人がどこにいるでしょうか? それはだれに似たのでしょうか? 神様に似たのです。それはどういうことかといえば、神様も愛の相対は、自分より優れていることを願われるのです。

 絶対的な神様が人類の父であるなら、その父が絶対に行わないことを、その子女に必ず行うようにと命令することができるでしょうか? 命令することはできません。神様も真の愛の対象が、自分より優れていることを願われるという原則から見ると、人間の価値は最大です。真の愛を中心として、神様より貴い価値があるということです。それゆえ、皆さんの心は、最高のものを願うのです。

 真の愛によって永生が可能

 天上の高く貴い立場から、この宇宙を見つめ、管理、主導するようになっているのであって、ほかの何かに服従するようにはなっていません。皆さんの心は解放されています。だれの支配も受けたがりません。これは万人平等です。真の愛の位置にいれば、神様の位置、天国の宝座に自由に行くことができるのです。神様の友となれるのです。

 真の愛ゆえに、人間を創られたとき、永生される神様であられるので、その真の愛に一致した人間が永生するということは、自然な論理です。それゆえ、永生するためには、その真の愛の圏内で暮らさなければなりません。

 真の愛によって、永生が可能です。何故でしょうか? 創造の出発、動機、過程からすべての目的が、真の愛を中心として完成されるからです。過程を通じて結果が出てくるのです。

 自分の心と体の完成は、真の愛によって可能になるのです。無限の根本、原因から過程、それによって理想の実を結ぶものは、真の愛しかありません。真の愛によって、神様も永存されるのです。永生の環境をなすには、真の愛の環境を中心として生活しなければなりません。真の愛の実体圏は、真の愛を中心として、実体的に体恤しなければならないのです。

 神様・永生・真の愛を知るべき

 皆さんは、神様が霊界のどこにおられるかを、はっきりと知りません。皆さんは、神様の絶対的なセンター、愛のセンターという観念をはっきり知らなければなりません。その真の愛の力は、もっとも速い真の愛の力なのです。その真の愛は、直短距離を通ります。

 何故、文先生がこのようなことを教え、強調するのでしょうか? 神様を知り、永遠の世界を知っているからです。神様を知り、永遠の世界を知れば、自分勝手に生きることができません。

 第一に、神様を知らなければなりません。第二に、永生を知り、第三に、真の愛を知らなければなりません。百パーセント以上投入するところに、永生があります。真の愛を持たなければ、永生はありません。永生できない人は、神様に出会うことができません。

 今後、世界をどのように収拾するのでしょうか? 第一に利他主義、第二に真の愛、第三に永生です。これで世界が収拾されるのです。これの反対は、利己主義です。これはサタン側と通じるのです。

 真の愛は、自分の生命以上に投入しなければ生まれません。レバレンド・ムーンがアメリカに行って、生命と財産と統一教会のあらゆるものを投入し精誠を尽くしました。ここから、真の愛が成り立つのです。真の愛が成立しなければ、永生はあり得ないのです。

 何故でしょうか? 皆さんの悪の生命の起源は、サタンの血統です。サタンに属するのです。愛もサタンの愛です。

 ですから、聖書では「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。これが第一の戒めである」とあります。この言葉は何でしょうか? 「心を尽くし、精神を尽くし」というのは、生命までささげなさいということです。これが第一の戒めです。

 第二の戒めは、「自分を愛するように隣り人を愛せよ」というものです。すなわち、生命を懸けて、真の愛で愛しなさいということです。生命を投入しなければならないということです。

 なぜ、生命を懸けなければならないのでしょうか? 生命を懸けなければ、第一に、サタンを屈伏させることができません。第二に、サタンの環境から抜け出すことができません。第三に、サタンの血統を断ち切ることができません。この三つです。サタンの環境は抜け出せるとしても、サタンの血統はどうすることもできません。真の愛は、生命を超越するものです。

 真の愛と関係した死後の世界

 神様には、時間という概念がありません。それは、永遠に終わりであると同時に、初めであるということです。過去も、現在も、未来も同じであるということです。そのようであったとしても、反発せずに作用を引き起こし、神様が安息することのできる土台とは何でしょうか?

 それは、神様の全知全能をもってしてもできません。神様の真の愛のみが可能なのです。神様も、「真の愛7」と言えば「そうだ7」と言うのです。それ以外は、神様にとって必要ないのです。

 私たちは、最終的にどこに行くのでしょうか? 霊界です。大概の人は、死後の世界であると言いますが、そうではありません。何故ならば、霊界は、真の愛と関係している世界だからです。真なる愛を中心として出発したものなので、自分が真なる愛の立場に立っているときは、そこがまさに霊界なのです。それゆえ、真の愛は偉大なのです。

 真の愛によって縦的な球形運動をすることによってのみ、上下、前後、左右が和合できます。縦横が和合できなければ、上下、前後、左右全体が和合できません。統一がなされません。真の愛によってのみ、統一が可能なのです。それゆえ、統一教会が真の愛を中心とした統一理想世界を論ずるのも、原理観に一致した結論です。

 神様が人間を導いてくださろうとするのです。神様も、真の愛を呼吸されます。神様も宇宙のリズムに合わせておられるので、真の愛を中心として宇宙が永遠に続くのです。真の愛があるところに永生があるのです。ですから皆さんも、そこまで行かなければなりません。そうしてこそ、神様の呼吸圏内に入っていくことができるのです。

 真の愛も息をします。宇宙の脈拍がそのようになっているので、男性も女性も、真の愛を好むのです。リズムが合ったときは、真に愛し合わなければなりません。すべてが、神様を中心とした一つの方向なのです。

 「祝福」の門を通過して天国へ

 霊界も肉界も、愛に従って動きます。縦的な真なる愛の主軸を中心として、環境的条件は自ら自動的にリズムを合わせるのです。

 過去の人も、現在の人も、永遠性を持つための資格は何でしょうか? 人間世界で必要とするあらゆる欲求の要因は何でしょうか? それは真の愛です。でたらめな愛ではなく、真の愛です。

 真の愛とは、縦横に通して九〇度どこに合わせても、角度が合わなければなりません。東洋の家、西洋の家、南の家、北の家、どんな家にも合い、五色人種、文化背景、各宗教の背景が違ったとしても、この道を共に行くことができてこそ、真の愛です。

 今日、この世の中には多くの人々が暮らしています。しかし、統一教会で言う「祝福」の意味を知っている人は、多くいません。「祝福」という言葉は、統一教会で始まったものであり、その「祝福」という言葉を中心として、今まで祝福結婚の行事をしてきました。

 これから、人類はどこに行くべきなのでしょうか? 全人類は「祝福」の門を通らなければ、天国に行くことができません。多くの人々はキリスト教を信じていますが、その人々も「祝福」という門を通らずには、天国に行くことができないのです。

 このようにいえば、キリスト教では、「統一教会のレバレンド・ムーンは、独善的な発言をする」と不平を言います。このように言う人もいるかもしれませんが、それはその人たちの言うことであって、統一教会でいう「祝福結婚」は、堕落した人類が必ず行かなければならない道なのです。どれほど反対したとしても、霊界と肉界を連結して、天国に入らなければなりません。重大な問題は、この「祝福結婚」というものです。

 今日、一般の宗教を信じる人は、「救い」というと、個人の救いを考えます。「良く信じれば、自分は天国に行く」と信じている立場です。しかし、本来の神様の理想から見ると、天国は一人で行くようにはなっていません。

 夫婦の霊人体

 私たちは、真の愛の理想を求めていく群れです。ですから、霊界の代弁者として立つために、真の愛の理想をどれほど横的な世界に植えて、種として蒔くかが問題です。そこで真の愛の心で互いに授け受けしながら育つのです。

 このようにして、真の愛の実を結んで、その夫婦が霊界に行くとき、神様の永遠なる真の愛の圏内に抱かれ、神様と一つの体となります。

 人はこの地上で、肉身は老いていきますが、夫婦生活をして、真の愛で愛し合えば愛し合うほど、霊人体は若くなります。これはどのような話かといえば、人間は長く生きれば生きるほど、内的な人間である霊人体は、最高に円熟した美男、美女になるということです。肉身という殻は、古着のように脱がなければならないのに、これが老いずにいたならどうなるでしょうか?

 それで年を取れば、外側の殻は、すべてだめになりますが、内的な中身は堅くなって未来の相続者となり、美しい人間になるのです。秋に実る栗の実のようになります。

 結婚はなぜしなければならないか?

 神様を直接愛する前に、皆さんの目の前にある、食べる物、物質、万物を愛し、皆さんの体を愛さなければなりません。万物を愛し、その要素を吸収することによって、自分の体を愛するようになるのです。

 皆さんの第一の父母は、皆さんを生んでくれた父母であり、第二の父母は地球です。この地上です。皆さんは、肉身が成長できるように、地上からその要素を供給されます。地上が肉身の第二の父母です。第二の父母を経て、第三の父母のところに帰っていくのが「死」という過程です。

 第三の父母のところに行く場合は、そのままで行くのではありません。第三の父母のところに帰るためには、本来の父母であられる神様の姿に似なければなりません。

 したがって、なぜ結婚をするのかといえば、神様の姿に似るためです。神様は、二性性相の二性が、合体した一体的な存在であられます。その神様の分性的人格自体が男性と女性であるので、彼らが合性一体化して種のようになって、神様の本性の立場に帰らなければならないのです。

 しかし、その種を連結させるためには、真の愛の道理である結婚を通じなければなりません。生まれるときも、成長するときにも、生活するときも、真の愛を中心として生き、どこへ行くとしても、真の愛に帰るために行かなければならないのです。

 真の愛のために結婚を願うのでなければ、永生の方向が違ってくるようになるということを、皆さんは知らなければなりません。

 真の父母から始まる祝福と永生

 祝福結婚と永生は、真の父母から始まります。真の父母と真の愛で一体となることは、個人、家庭、国家、世界、天宙が完成し、神様の創造理想が完結することです。真の父母が生まれた所が人類の祖国となり、地上天国と天上天国の出発地となり、神様の全権時代を迎えるようになります。

 ですから滅びることはなく、全盛時代へと発展するのです。大韓民国の民は「訓読会」を通して、真の父母と超国家的に一体となって、万国の勝利圏を備え、万国の祖国にならなければなりません。アーメン。

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