文鮮明師 講演文

「神様の王子・王女が行くべき生涯路程」

「神様の王子・王女が行くべき生涯路程」

文鮮明師 講演文
"In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the word was God." John1:1

「神様の王子・王女が行くべき生涯路程」

(00.03.12 文鮮明先生ご聖誕80周年祝賀 南北統一前進大会 ソウル・オリンピック主競技場)


 南北統一を熱望する指導者、そして紳士淑女の皆様

 たった今、始まった新千年は、二十世紀の遺物である分裂と葛藤が清算され、和解と統一の地球村一家族という理想が実現されるときです。皆様の各家庭に新千年の祝福が共にあることを祈願いたします。

 まず、わたしの八十回目の誕生日を祝賀してくださるために、世界(全国)各地から訪ねてきてくださった皆様に心から感謝いたします。そして何よりも、この日まで見守ってくださり、共にいてくださった神様にすべての栄光をおささげいたします。

 わたしの生涯を振り返ってみるとき、ただのひとときも平坦な時期がありませんでした。韓半島を取り囲む列強の狭間で、あらゆる苦難の道を歩んできた民族の受難史とともに歩んできました。

 わたしは、十六歳(数え年)の少年時代に、祈祷している中で突然、天のみ旨と出会い、その後、生涯を通じて神のみ旨を成就するために全身全霊を傾けてきました。

 そして気がつけば、人間の不幸の根本原因は、人類始祖の堕落によって霊的無知に陥り、神様との関係が断絶された結果でした。

 このことによって、神様と人生と宇宙の根本問題等に対して無知に陥ったのです。今までわたしは、世界各地の公式席上において、一万回以上、語ったみ言を通して、神主義に立脚した真の人生観、世界観、歴史観を提示してきました。

 それらの内容は、世界各国の十二の言語に翻訳され、すでに三百巻以上の本として出版されました。これは、文献による総合的な研究や学問的な探求の結果として解明したものではなく、有形・無形世界を自由に行き来しながら、原則的で根本的な解答を解き明かしてきたものなのです。

 今日、わたしは、この意義深い場に感謝しながら、わたしたち民族の宿願であり、世界の冷戦問題の最後の決算であるというべき韓半島の統一問題を念頭に置き、その方案に対する根本的な解答として「神様の王子・王女が行くべき生涯路程」という題目でお話ししたいと思います。

 内外の貴賓の皆様

 皆様は、どこの国の国民ですか? 大多数の人が韓国の国民であると思います。そうすると、韓国が皆さんの祖国です。そうではないですか? それでは、神様の祖国はどこになりますか? 今、神様の祖国はありません。この世界のすべての国家の起源はどこですか? 神様が起源になっていますか、そうでなければ、他のところが起源になっていますか? このような、すべての国家の歴史的な起源が問題になっているのです。

 この世の国々は、すべて闘いによって分かれて生まれました。それゆえに、ある二つの国があるとき、その二国の境界線は、深い恨みが積もった境界線になっている場合が多いのです。第三国、第四国との境界線よりも、隣接した境界線を中心としてより熾烈な闘いを繰り広げ、より多くの血を流した歴史的な事実があるということをわたしたちはよく知っています。このように、二国家間、二つの民族間の障壁が最も高いのです。

 闘いは常に、何万里も離れた所に飛んでいってするのではありません。昔から、隣接する二国家の境界線を中心として闘いが起きてきました。ですから皆さんも、最も近い隣人との間から闘うようになっています。なぜなら、人間が堕落したからです。隣人との間から闘いが起きるのは、堕落による結果なのです。

 堕落とは何ですか? 神様と人間との間に葛藤が生じるようになったことであり、神様とサタンとの闘争が起きるようになったことであり、人間とサタンとの闘争が起きるようになったことです。人類歴史において、この地球上に数多くの国があったということは、数多くの闘争があったということを証明することだという結論を下すことができます。

 そのようにして生まれた国はどこに行くのでしょうか? すべての国が平和の世界を追求しますが、「平和の世界に行くことができるのか? 」という問題が、今人類共通の課題として残っているのです。

 平和の世界というものは結果の世界ですが、過った出発、すなわち過った原因から平和の世界に到達するということは、論理的な矛盾と言わざるを得ません。それゆえに、このような戦争の起源を克服して乗り越えていくことのできる運動を展開するところにおいてのみ、理想世界に向かう出発点を捜し出すことができるのです。原因が完全であるために結果が完全であり、平和で始まるがゆえに平和の過程をたどることができ、平和の目的に到達できるということは、理論的に妥当なのです。

 このように見るとき、自分の国と隣接している国が歴史的な怨讐国家であるといって、ずっと憎み続けようとするならば、永遠に平和の世界には到達できないということを知ることができます。それでは、いくら理想郷を慕い、理想郷に向かって前進したとしても、その目的達成は不可能です。このような闘いが始まった、その動機を否定し、過った歴史を消し去るためには、その反対方向の内容を主張する運動が必要であるというのです。

 内外の貴賓の皆様

 皆様は、国のない民と同様です。それでは、過去には国があったのでしょうか? 歴史上に、「わたしの国である」ということのできる形態の国があったでしょうか? そのような国の形態も、持つことができなかったのです。それでは、その国を取り戻すために苦労した人がいなくてそうだったのでしょうか? そうではありません。その国は、過去の歴史時代の人が考えていた位置では、捜し出すことができないために迎えることができなかったのです。その時代圏内において、内外を備えた基準を中心としてその国を捜し出すことができなかったので、その国を迎えることができなかったのです。わたしたちが取り戻さなければならない祖国というのは、今日、この地上に存在する、いかなる歴史と伝統を持った国でもありません。そのような国とは本質的に次元が違うのです。

 わたしたちは、次元が違う、その国を受け継ごうとするならば、そのようにできる思想的な主体性を持った国民にならなければなりません。しかし、その主体的な思想は、絶対的な創造主がおられるならば、その創造主の思想と一致する思想でなければなりません。絶対者が願う国を成そうとするならば、その国の主権を中心として国民が一致することのできる国となることを願わなければなりません。そのような国民性を持って国家形態を備えなければならないのです。

 一つの国が形成されるためには、主権がなければならず、国民がいなければならず、国土がなければなりません。天の国もやはり同じです。主権に代わるものが父母であり、国民に代わるものが息子・娘であり、国土に代わるものが国なのです。この中のどれ一つとして除くことはできません。これは鉄則です。最も重要なことは何ですか? 世界と国のために生きることです。そのようにさえすれば滅びません。滅びない所が限界点です。

 国をために生きる基準で実際に行動をしていて死んでいった人々は、死んでもその国の民になります。その国がなくなるときまで残るようになるのです。国が形成されるためには、国土がなければならず、国民がいなければならず、主権がなければなりません。

 主権とは何ですか? 根源である神様と因縁を結ぶことです。国を統治する人たちは、国民が深く寝入った後に、神様と因縁を結んで政治を行わなければなりません。そして、主権者は、国民と一つにならなければなりません。国民と一つになり、自分の持つすべてのものは自分のためのものではなく、国のためのものであると考えなければならないのです。

 そのようになれば、その国は繁栄します。そのような観点から、地上に天国を実現するという問題を考えてみるとき、天国の主人はだれでしょうか? 主権者はだれでしょうか? 間違いなく神様が主権者です。そして、国民はだれですか? 国民は万民です。それでは、国土はどこですか? 地球星です。地上天国はだれに似ているのでしょうか? 「わたし」に似ているのです。一つの国を見れば何がありますか? 主権、国民、国土があります。これは人間と同じです。

 地上天国はだれに似ているというのですか? 「わたし」に似ているのです。「わたし」という個人が集まって国になるのです。したがって、「わたし」に心があるように、国にも主権がなければならず、人格体なので国民がいなければなりません。人間には万物があるように、国土がなければなりません。

 このような原則から、国土は人に支配され、国民は主権に支配されるのです。この国土、国民、主権が国家形成の三大要素です。そのようになっています。

 人について見てみるとき、心は体を支配し、体は万物を支配するのが原則です。この原則があるために、全世界を見れば、天地人であるという決定的な結論が出てきます。天は何ですか? 人間の心と同じなので主権と同じです。人は国民であり、地は万物です。結局、国はだれに似たのかというと、「わたし」に似ているのです。

 いくら大きい社会、いくら大きい国家であっても、人に似なければなりません。それは、神様がご自身の形状に似たものを好まれるからです。それでは、人が最も好むものは何ですか? 自らの形状に似たものです。ですから、理想的な国家とは、何に似なければならないのですか? 人に似なければなりません。天地人に似るのです。

 統一教会の用語で祖国というものは、大韓民国という一つの国ではなく、世界的な国のことをいうのです。世界的という言葉は、堕落した世界圏でも使われる言葉なので気分が良くありません。それで、このような祖国を捜し求めていく主義を統一教会では天宙主義というのです。

 その祖国は大韓民国ではありません。神様が願われる祖国は大韓民国ではなく、米国でもありません。共産国家でもないのです。その祖国は神様が願う祖国です。ゆえに、わたしたちは、新しいその祖国の文化をつくりあげなければならず、その祖国の歴史をつくりあげなければなりません。

 わたしたちは、新しい理想的な祖国を立てるために、新しい基準を定めなければなりません。わたしたちの生活を変えなければならないのです。その世界は、今のこの世界と全く違います。言葉も違うのです。「原理主管圏」や、「相対基準」、「相対基台」、「復帰基台摂理」という重要な言葉を、世の中の人々は知っていますか? ですから、違うというのです。

 統一教会が願う国が建設されれば、統一教会の看板をはずさなければなりません。そして、統一教会が願う世界が形成されれば、統一教会が立てた国はなくさなければなりません。大韓民国の韓民族を中心とした文化と人格だけのための宗教は捨てなければならないのです。世界のために生きる宗教であってこそ、これからも残る宗教になるのです。

 満場の内外の貴賓、紳士淑女の皆様

 神様のみ旨を受け継ごうとする人がいるならば、彼はどのような主張をしなければならないと思いますか? この世の人々が好むような方向に行くようにという主張は絶対にできません。むしろその反対の道に行くようにと主張しなければなりません。それに該当する代表的な標語が「愛の心を持って怨讐を愛しなさい」というものです。「怨讐を愛しなさい」このみ言は、誤った歴史を元に戻すことができるものであり、台風に揺さぶられる船の錨や錨綱のようなものです。

 しかし、復帰摂理歴史を通じて「怨讐を愛しなさい」というみ言を実践してきた人はいませんでした。もし、怨讐を愛することができる人々がいるならば、そのような人々によって一つの組織的な形態を備えた世界的な版図を確保しなければなりません。このような結論が出てくるので、そのような運動を神様が提示なさらなければならないのですが、神様によって提示されたその運動の反映体が、歴史に現れた宗教運動であるということを皆さんは知らなければなりません。

 今までで、神様が最も愛することのできる人はだれでしょうか? イエス様なのです。イエス様は、闘っているこの世界に新しい方向を提示してくださいました。ローマやイスラエルのような圧迫国家と非圧迫国家の間には、お互いを怨讐視する高い障壁があるのですが、イエス様の哲学は、それを壊してしまうべきであるというものです。イエス様は「ローマよ、あなたは力でわたしを征服しようとするが、わたしはその反対に愛であなたを征服する」と考えられたのです。それで、十字架に架かりながらも怨讐のために福を祈ってあげたのです。

 そのような思想は、ローマの兵士たちに対して「彼らは、自ら犯した罪が分からないので、彼らを赦したまえ」という驚くべき宣言として現れたということを知らなければなりません。イエス様がそのようになさることによって、世界のすべての国がお互いを怨讐視することを乗り越えることができ、二つの国家間の国境を乗り越えることができる、一つの原型、または模範となりました。

 イエス様は、個人的な怨讐がすべてではないということを知っていたのです。家庭的な怨讐があり、氏族的な怨讐があり、民族的な怨讐があり、国家的な怨讐があり、世界的な怨讐によって四方から縛りつけられているということを知っていました。これは、自分に従い、自分が行く道を行こうとする人には、数多くの怨讐が待っているということなのです。そして、「家庭的に行けば家庭的な怨讐が待っており、氏族的に行けば氏族の怨讐が待っていて、熾烈な闘いが予想されるけれども、そのときごとに怨讐を愛しなさい」というみ言です。このような精神を持っていれば、いつかは勝利できるというのです。

 それでは、神様の理想国家の実現、すなわち祖国主権復帰はどこから実現されるのでしょうか? 怨讐を愛するという思想を持った個人から出発するのです。それゆえに、「神様がいらっしゃるかぎり、愛で国境を崩し、すべての環境と文化的な垣根を越えて怨讐までも抱こ う」という運動を提示したキリスト教は、世界的な宗教にならざるを得ないのです。大豆を植えれば大豆ができ、小豆を植えれば小豆ができ、真っ赤な花の種からは真っ赤な花が咲きます。同じように、あだを討つサタンの種をまけば、あだを討つ悪の木が育つのですが、怨讐を愛する善の種をまけば、怨讐を愛する善の木が育つということです。これは自然の道理なのです。

 神様の祖国は、どこからどのような道を訪ねてくると言いましたか? それは、怨讐を愛する道、個人の怨讐を愛して、家庭の怨讐を愛して、氏族の怨讐を愛して、国家、世界の怨讐を愛する伝統を残す道から訪ねてくるのです。そのような道でなければ、神様の祖国は現れることができないということを皆さんは知らなければなりません。

 見ていてください。米国が反対したゆえに、国務省が反対したゆえに、国会が反対したゆえに、わたしは、国会で勝利したという賞状を受け、国務省から勝利したという賞状を受け、米国で勝利したという賞状を受けることができる時が来るはずです。それで、反対する国務省の中にも友人ができ、国会の中にも友人がたくさんできています。勝利は、わたしに返ってくるようになっています。

 わたしは、そのような友人が一人もいなかったとしても、あらゆる反対を克服して勝利に導くことができるという確信があります。反対すれば反対するほど、こちらの怨讐を愛する内容が相対的により大きくなるので、反対が激しいからといって落胆する必要はありません。

 自然の道理は、一方が低気圧ならば、もう片方は高気圧になっています。一方が高気圧になれば、もう片方は低気圧になるのです。米国の国務省が高い所から反対するとき、わたしが低気圧圏を成していれば、高気圧が低気圧に吸収されるように、米国の国務省はわたしに屈伏してしまうはずです。

 わたしは、非難されながらも闘わずに彼らを愛すると、彼らはわたしの友人になり、友人の家庭ができ、友人の氏族ができ、友人の国ができたのです。

 怨讐を愛する精神を持った人々によって構成された国が現れれば、その国は、神様が願う理想境となることができ、人類が入っていくことのできる理想郷になることができるということを知らなければなりません。

 わたしは、とても見すぼらしい男です。事実、そうではないですか? 皆さんは「違う」と言いますが、世の中の人たちは、わたしが愚かな人であると思っています。しかし、神様は、わたしがいちばんお好きです。世の中がわたしを愚か者扱いしたとしても、神様が認めるので、世の中に対して堂々とした立場で攻撃できるのです。

 怨讐を愛する心を持てば、言えないことがありません。なぜですか? 神様が送った男性であり、美男子というならば、そのような人が美男子です。りっぱな人というならば、そのような人がりっぱな人です。堂々として勇ましい人というならば、そのような人が堂々として勇ましい男であると考えるので、わたしは、それを栄光に思い、世の中に対して自信を持って攻撃するのです。

 わたし一人がこのように陶酔して活動すれば、何が起こるのかご存じですか? このようにすることによって、神様を喜ばせる若い青年男女が生まれ、神様を喜ばせる五色人種の家庭が生まれ、神様を喜ばせる民族が編成され、神様の祖国の主権復帰が可能になるのです。

 「怨讐を愛しなさい」と言ったので、最も憎むべき人をも愛さなければなりません。いちばんの美男子にいちばんの醜女を夫婦として結んであげたとしても、怨讐を愛する以上に愛さなければなりません。そのような人は、この世の怨讐を愛するにおいて最高の王子の旗を掲げて前進する人の候補者です。事実そのような人がいるならば、どれほど素晴らしいか考えてみてください。そのような人は、民族の国境をさっと越えることができるというのです。

 愛する心だけを持って暮らす日には、すべての障壁が崩れていき、復帰摂理歴史が短縮されて天国が近づいてくるということを知らなければなりません。

 わたしの哲学は簡単です。わたしは、やってみなかったことがありません。農民にもなってみて、労働者にもなってみました。やれることはすべてやってみました。漁夫になってマグロも釣りました。そのようにして生涯を生きてみると、一人だと思っていたのに、振り返ってみると英国人がついてきて、米国人もついてきて、世界の数多くの人々がついてきています。ついてくるなと足でけ飛ばしてもまたついてきて、後ろに飛ばされてもまたついてきます。ですから統一教会を、いくら研究してみてもその内容のすべてを知ることはできないのです。

 内外の貴賓、そして紳士淑女の皆様

 今から行くべきなのは、どのような道ですか? いくら氏族を編成したとしても、サタンの国の主権が残っているかぎり、皆さんは国のない人々です。ここが皆さんの国ですか? 皆さんには国がないのです。いくら氏族があるとしても、その主権が天を中心とした主権でないときは、この氏族の首を切ることもあり得るのです。そうでしょう? それゆえに、天が歓迎することのできる国を訪ねていかなければなりません。今日、この地上における第一イスラエル圏というものは、天全体が歓迎でき、個人も歓迎し、家庭も歓迎し、氏族も歓迎し、民族も、教会も歓迎することのできる、そのような地になるべきです。ところが、今日の統一教会を中心として見ても、既成教会を中心として見ても、大韓民国を中心として見ても、全体が歓迎できる立場に立ったでしょうか? そのようになることができませんでした。方向が違います。方向が違うのです。大韓民国が進んでいるのは外的です。そうでしょう? 神様を中心としたものではなく、世の中を中心として外的に進んでいます。この国の主流的な思想がないというのです。

 したがって、この国の主流的な思想を中心として天と連結させ、新しい立体的、あるいは平面的内容を備えた新しい国家観を形成し、その形成された国家観を、今日の国家を中心としたもの以上の内容として備えていかなければ、祖国の主権復帰の時を迎えることはできません。

 今日の「解放」というものは第一の解放です。今、統一教会においては、第二の解放が必要なのです。大韓民国も第二の解放が必要です。ここで大韓民国が第二の解放を迎えれば、国家と民族は、そのことによって願いを成就できるかもしれませんが、統一教会は第三の解放を必要とするのです。そのようになるのです。大韓民国は第一の解放により、初めて内外において今の国家形態を備えましたが、第二の解放が必要な時が来ました。南北が統一されなければならないというのです。

 その国はどのような国ですか? その国は、歴史過程において、民族が悲惨な路程をたどらねばならず、蕩減復帰の原則に一致することのできる国民性を持たねばならず、歴史的な伝統を引き継いできた国でなければなりません。その国はどのようにならなければならないのでしょうか? 完全に統一された国にならなければなりません。今日の大韓民国がそのような国になろうとするならば、どのようにならなければならないでしょうか? 

 その国の基準に上がっていくためには、南北を統一しなければなりません。北朝イスラエルと南朝ユダのように分かれた南北韓を、一つに統一しなければなりません。カイン・アベル国家に分かれたのと同じように南北に分かれたのですが、これを統一しなければ一つの勝利的イスラエル国家は現れないのです。

 それでは、この国において、大韓民国を中心として北朝鮮と韓国は、どのように統一されなければならないでしょうか? それは、新しい世界主義的な思想を持たなくては統一することができません。この時に備えて、新しい思想を掲げていこうというものが、今日の統一教会が主張する統一思想です。分かりますか? 

 今、わたしたちは、二つのことをしなければなりません。世界において、いかなる国家もついてくることができない団結した民族を形成しなければならず、そして、いかなる宗教もついてくることができない鉄のような信仰で団結した宗教国家を成し遂げなければならないのです。このような思想を中心として、南北が統一された国家が成し遂げられなければなりません。そうしなければ、神様の国、世界に誇ることのできる天国の主権は誕生しないのです。これが、今日のわたしたちの行くべき地上の第一目的地であるということを知らなければなりません。

 祖国を取り戻すことができなければ、サタン世界の国家を凌駕することのできる天を中心とした一つの国を持つことができません。その国を持つことができなくては、世界のサタン国家を打つことはできません。押し出せないのです。宗教、統一教会をもってしてはできません。統一教会の思想を中心として、国が方向を定めて進んでいかなければなりません。このような問題が残されているということを知らなければならないのです。

 このような観点で見るとき、イスラエル国家の精神的な支柱がユダヤ教であったように、今日の韓国において統一教会がユダヤ教と同じ立場であるならば、統一教会の思想が韓国の主流的な思想になるのです。ある人たちは、そのように言うのです。国会議員たちもそのように言います。統一教会の思想を国教にすれば、共産党は問題ありません。

 紳士淑女の皆様

 今日、天のために行く人々は、サタン世界に派遣された密使です。個々人において、大小、広狭、高低の差はあるかもしれませんが、各自が置かれている生活自体においては、密使の生活から離れてはなりません。そこには、いつも生死の危険が伴っています。まかり間違えば、永遠の生命の問題が左右される立場に立つようになるのです。

 それゆえに、永遠の生命を支えることができ、永遠の生命を保護してくれるわたしたちの祖国を取り戻すという観念が、その環境より何百倍も強くなければ密使の生活はできません。「祖国の栄光を願う心を持って祖国の恨を解いたとき、すべての万民が喜ぶ」ということを考えながら、新しい歴史を創建し、祖国主権復帰の一日を迎える、その時に、自らの功労が現れることを思いながら、現在の立場を無視してしまうことができなければなりません。そのような心が先立たなければ、密使の使命を遂行することはできないのです。別の言い方をすれば、祖国主権復帰のための希望が現実の希望より千倍万倍強くなってこそ、今の生命をささげる恨があったとしても、それを克服して密使の使命を遂行することができるのです。

 もしそのように責任を果たそうとして、不意の事故で犠牲になったとしても、そこには新しい責任者を再び派遣できるのです。すでに彼が死んでしまったとしても、彼の友人になることができ、彼の側に立つ人々が出てくるはずです。彼が模範となる立場で生きてきたゆえに、たとえ彼が犧牲になったとしても、そこには彼の側に立つ人々が残るのです。このような人々が残っているかぎり、神様がその基台の上に代わりの者を送ることができるのです。しかし、そうでない立場で死んでしまうときには、そこで彼がいくら苦労したとしても、それで終わってしまうのです。

 このような立場で、皆さんは今、新しい時代を迎えてどのような姿勢を持たなければならないのでしょうか? 祖国主権復帰のための信念が、何よりも高く、胸の中で燃えていなければなりません。別の言い方をすれば、六千年間、神様が待ち焦がれた祖国を建設する旗手となり、先鋒に立った精鋭部隊の一員として開拓者になる、この途方もない使命に責任を持っているという自負心を感じなければならないのです。過去に生きた数多くの人々が持つことを願いましたが、持とうとしても持つことができなかった、一つしかなく、この一時にしかない特権的な使命を担ったという厳粛な責任感を持たなければなりません。

 したがって、食べること、寝ること、行くこと、来ること、すべての生活が祖国創建のためのものでなければなりません。「神様から特別に派遣された密使として、りりしく見事にこの使命を遂行しよう」と立ち上がってくれることを神様がどれほど期待していらっしゃるでしょうか? 今までは、ひどく追い込まれ、激しく追い回されました。国家の基台を備え、全体の内容を提示して一度も広げてみることができなかった天のみ旨、祖国を立てることができる、そのようなみ旨を立てなければなりません。今までそのみ旨を、一度も立てることができなかったのです。

 しかし、今からはそのような祖国を立てることができます。その祖国には、主権があり、その祖国には国土があり、その祖国には国民がいます。また、そこには、単一民族の血統が因縁となっており、他の民族が持つことができない歴史があります。そのような祖国のためにわたしたちは密使の使命を遂行しなければなりません。そのような使命を自分自ら早く完遂して、やり遂げればやり遂げるほど、祖国主権復帰の基台が自分によって徐々に近づくのです。きょうの苦労を代価として払うことが祖国主権復帰の一日を早く迎えることのできる基台になるのです。このような事実を思いながら、皆さんは生きて密使の使命を完遂するという決意を持っていかなければなりません。そうでなければ、これから神様がわたしたちに与えてくださる世界史的な祝福と天運を、わたしたちのものとして迎えることができないのです。

 わたしたちは、天国を地上に建設しなければなりません。地上でその国を復帰し、その国の中心と一つになって、天の国において、天が願ったその希望の基準を備えてお父様のみ前に帰ってこそ、面目を立てることができるのではないかというのです。

 ところが、皆さんに国がありますか? 持っていないということを考えるとき、死ぬに死ねないのです。死ねば、どこへ行くのかというのです。お父様のみ前に行って面目のないことと恥ずかしさをどのように免れるのですか? 自分の生命の長さというのは制限されているのに、その期間内にしようとするのですから、どれほど忙しいでしょうか? そこで悪なるサタンの環境はわたしたちに反対し、怨讐たちはわたしたちの道を妨げるのです。これを切り開いていこうとするので、いつも密使のような行脚の路程を避けることはできないのです。

 わたしが行き来するのも、その国を取り戻すための、祖国主権復帰のための建国の功臣になるためであり、そのような使命を担い、あるいは天の密使として指令を受けて今日の悪なる世界に来てこのことを行っているという事実を思いながら生きていかなければなりません。

 そのようにしなければ皆さんは、今後、訪れる国の国民として、その威信と体面を立てることができないということを知らなければなりません。

 皆さんは個人的に影響を与えたいですか? 家庭的に影響を与えたいですか? 国家的ですか? 世界的ですか? どのように影響を与えたいですか? 世界的に影響を与えたいでしょう? しかし、世界的な舞台に上がっていこうとするならば、一人ではできません。国がなければなりません。しかし、皆さんの国があるでしょうか? 

 ですからわたしたちは、夜も昼もその国のために食べて、寝て、暮らそうとするのです。そのために生まれたということを、皆さんが天地を中心として誓う生活をしなければならないということを知らなければなりません。寝ているときにも、世界の数多くの人々のベッドを集めて、その頂上で寝ていると考えなければなりません。食膳を見てもそのように考え、どこにいても自分一人で座るのではなく、世界の人種をすべて集めた頂上の玉座に座っているという心を持たなければならないのです。天の息子はそのようでなければなりません。

 サタン世界の権限を凌駕する位置に立つことができ、その栄光の位置に立って生きなければならないのが天の息子・娘の生活であるということを、皆さんは知らなければなりません。神様が息子・娘を愛そうとするならば、そのような息子・娘を愛すべきなのであって、サタンにさえも劣る息子・娘を愛すれば、父の威信が立たないのです。皆さんは、そのような信念を持って今後、全世界と手を結んで日々の生活をしていかなければならないということを、新しく決心しなければなりません。そこにおいて、統一戦線の基盤は確固たるものになると思うのです。

 「わたしは、たとえサタン世界圏内にいたとしても、天の密使だ、天の一大使だ」と考えなければなりません。密使には、その国の国王と直接連絡することのできる道があるのです。ほかの人には分かりませんが、そのような密使の使命と威信のために生きているという信念を持っていかなければならないのです。このことを皆さんは、はっきりと知らなければなりません。国の国王も密使の報告を待っているのです。それと同じように、わたしたちがこの地上で、そのような使命を持っているならば、神様もわたしたちの報告とわたしたちの要求を待たれるようになるというのです。

 したがって、自分が密使の立場で「至急に願うものを送ってください」と言えば、あらゆる冒険を克服しながらでも送ってあげようとするのではないでしょうか? これと同じように、皆さんがそのような信念を持って神様の特権的な栄光の息子・娘であることを認識しながら「わたしはこれを願うので成し遂げてください」と言えば、成し遂げてくれるのです。そのようにすれば、生きていらっしゃる神様を発見でき、生きていらっしゃる神様が働かれるのを見ることができるのです。

 そのようになってこそ、指導者になることができ、病気の者がいれば病気を治すことができ、困難なときには、神様が直接助けてくださるようになるのです。そのような生活を通じて多くのことを学ばなければなりません。そうしてこそ自信が生まれ、そうしてこそ信念を持ってすべてのものを打開していくことができるのです。

 紳士淑女の皆様

 わたしたちが行くべき所はどこですか? 個人を尋ねていくことが、わたしたちが行くべき目的ではないのです。また、家庭を尋ねていくことが現在のわたしたちの目的ではありません。わたしたちが行くべき道は、国を尋ねていくことです。分かりますか? 父、母、息子などという区別なく、これを尋ね求めなければならないということです。ところが、今日の統一教会の教会員たち、祝福を受けた家庭、氏族圏内にいる人々は「ああ、国だとか何だとか、教会だとか何だとか、そんなことは知らない」と言います。そのようになれば、すべて落第です。原理的にそうなのです。

 死ぬときまで国を求めていき、持てる精誠のすべてを尽くして、まさに天国の主権復帰のために祝典を行い、祝賀することができ、勝利の凱歌を上げることができる、そのときを迎えなければなりません。

 イエス様の言葉ならば何であっても、その一つだけしか知らないというようでなければなりません。方向を提示するにおいては、二つではなく一つです。行こうと言えば行かなければなりません。そのようになっています。そのようになっていますか、いませんか?

 それでは、夫を捨てて、息子を捨てて、家庭を捨てて行こうと言えば、行かなければな
りませんか、行ってはならないでしょうか? 統一教会のためにそのようなことはしないのです。国のためにそのようなことができなければならないというのです。

 今、以北ブク(朝鮮半島で休戦ライン以北をいう語。北朝鮮)では、家庭の戸籍をすべて作り直しています。これはどういうことだと思いますか? サタン世界が先に行うということなのです。国のためには、自分の夫や、妻、父母、息子など、すべて捨てて立ち上がることができなければなりません。そうしなくては、希望の国を取り戻すことができません。その国を復帰するとき、その国とともに父母を取り戻すようになるのです。国を見いだすことができなければ、血を流す父母を見なければならず、血を流す妻を見なければならず、血を流す子女を見なければなりません。それ以上に悲痛なことがどこにありますか? それゆえに、国を取り戻す前には妻を愛することはできないのであり、父母を愛することはできないのであり、息子を愛することはできないのです。これがキリスト教が行くべき道であり、統一教会が行く道なのです。

 皆さんは、自分自身を否定して、その国とその義のために生きる人にならなければなりません。いかなる困難な環境にぶつかったとしても、皆さんは、自分自身に対するお父様の願いがあることを思いながら、その環境と闘って勝つ人にならなければなりません。そのような皆さんになって初めて、神様の真の息子・娘であると言うことができるのです。

 それでは、神様の国を建設できる人はどのような人でしょうか? それは、自らの一身を否定し、切ない心で天のために生きる人です。自分を否定して、社会と民族、国家、世界のために生きる人が、まさに神様の国を建設することができる人であるというのです。さらには、国家と世界を否定してでも天のために生きる人が天国を建設することのできる人であるというのです。また、いかなる辛い環境にぶつかったとしても、自分一身のゆえに悲しむのではなく、社会と国家、世界、さらには天のために悲しむ人であってこそ神様の国を建設することができます。

 それだけでなく、皆さんは、神様の国と神様の義を捜し立てる過程において、サタンとの闘いに敗北せずに勝利して、皆さんが個人から家庭、社会、民族、国家、世界を一つに連結させることができなければなりません。すなわち、皆さんがどのような立場に立ったとしても、そこでサタンと闘って勝利する人にならなければならないのです。社会に出れば、その社会のどのような環境の中にあってもサタンと闘って勝利すべきであり、国家に出れば、その国家のいちばん難しい問題に責任を持ち、サタンと闘って勝利しなければならないのです。

 六千年間神様を縛りつけてきたサタンが、そのまま素直に「ああ、わたしは降参します」と言って、目を伏せて帰ると思いますか? 皆さんは雑巾でも、捨てようとすればもったいないと思うでしょう? 雑巾でも、引っ繰り返してにおいをかいでみてから捨てるのです。サタンは、そのまま退いてはいきません。ですから、がむしゃらな闘いをしてくるのです。それゆえに、中心に合わせなければなりません。統一教会の文総裁も、中心から外れるようになるときには負けてしまうのです。方向が合わなければ、発展しないということです。

 その国を取り戻すのは世界を取り戻すためであり、世界を取り戻すのは霊界のためなのです。そうして何をするのでしょうか? 神様を地上にお迎えして、そして定着し、万国が神様を中心にお迎えして、その神様の前に勝利の栄光をお返しするために行くのです。そのような闘いをしなければならないのがわたしたち統一教会の使命であるということを知らなければなりません。

 わたしたちは、はだしで出ていき、祖国を創建しなければなりません。食べ残したもので、この国を生かすことができますか? 食べること、着ること、行き来することに、いつ神経を使うことができるでしょうか? はだしで、素手で開拓していかなければなりません。このようなことを行うところが統一教会なのです。

 皆さんは祖国を捜し出さなければならない勇士ですか、それとも滅ぼす亡国の士ですか? 勇士とは国を代表し、ほかの人ができない仕事をできる人のことをいうのです。だれでもできる仕事をする人を勇士とは言いません。そのような人は兵士です。同僚たちができずに後退するとき、その仕事をやり遂げることができる人であるならば、その人は勇士です。「勇」という字は、「すばしこい」という意味です。だれよりも早く走り、鉄砲玉もよけるほどにならなければなりません。だれでもできる仕事をする人を勇士とは言えないのです。

 国を建国するにおいて、開拓の勇士となるべき先鋒に立つ将軍はだれですか? そして、国を成すことのできる基台はどこですか? 一つの国を成そうとすれば、主権がなければならず、国土がなければならず、国民がいなければなりません。それでは、天の国を中心として見るとき、国土となりうる基盤は何ですか? それは、教会の人と物しかないというのです。そうでしょう?

 この韓国に立てられる国は、どのような国でしょうか? 互いが流通し、交流するようになるときは、共産国が立てられるでしょうか、それとも今日の大韓民国としてそのままにしておくのでしょうか、そうでなければ、どちらでもない新しい国を追求するのでしょうか? このような問題について見るとき、わたしたちの時もますます近づいてきているということを感じるようになります。皆さんが、このことをなして、責任を負うべき統一の群れであるならば、それに対する責任感をどのくらい持ち、また、どの程度の犠牲の代価を払うことができる決意ができているのかというのです。自信がありますか? 三八線の以北に越えて、以北にある五つの道の市、郡を中心として、わたしたちの基地を準備しなければなりません。

 人員が不足なこのときに、だれが北韓の地の、定州ならば定州の責任者になるのかを考えてみなければなりません。定州の郡ならば定州の郡を中心として、「わたしが責任者にならなければならない」と、十年、二十年準備して、それでもなれなければ、後孫に「おまえは一所懸命に勉強して、一所懸命に準備をし、その日を迎えたら定州の地の天との因縁を代身した責任者になりなさい」と、遺言を残してから死ぬことのできる、そのような精誠を尽くす皆さんになってみましたか? わたしは今まで、そのように思って準備してきました。

 そのようなことを考えるときに、若い者たちは地方に帰って自分の子女と妻を連れて、笑いながら暮らすようになっていますか? そのように暮らすようになっていますか、いませんか? 死んでも国を残していかなければなりません。死んでも、子女たちに国を残してあげなければなりません。新しい決心をしなければならないのです。

 「わたしは、ソ連と満州に隣接する地方に行って共産党と額を突き合わせ、朝夕に銃声を聞きながら国境地帯の見張り役をする責任者にならなければならない。国が理解してくれず、だれも理解してくれなかったとしても、生命と取り替えても、国を愛する忠節の心は変わらな い」という決心をしなければなりません。それで満点です。世の中が分かってくれなくてもかまいません。霊界に行けば、すべて明らかになるようになっているからです。

 このようなことを考えるとき、人が足りないということを皆さんは知らなければなりません。分かりますか? 人が不足しているということを知らなければなりません。かかしのような男性であってもラッパをかつがせ、あるいはロボットをつくって北韓の地を歩き回らせてラッパを吹かせたいというのが、わたしの心情であり、神様の心情です。口があり、感情を持った男として生まれ、それも二十歳、三十歳の若い心と体を持っていながら、原理のみ言を語ることができないというのでは話になりません。

 目玉が腐って飛び出すくらい、夜、寝ずにでも勉強をしなければなりません。おなかがすいて、骨と皮だけになったとしても、準備をしなければなりません。そのようにして骨と皮だけになったやせこけた体が、天の愛をすべて受けることができる体となるのです。神様は、そのか細い一人の男性ならば男性に、すべての期待を持つことができるのではないかというのです。

 イエス様も、国を建てられるために来られました。祖国がなければ、かわいそうなのです。祖国がないので、宗教人たちは悲惨でした。審判しようとすれば、個人と家庭、氏族、民族、国家、世界が不変の基準に立ってこそ、その基準を基台として審判するのです。祖国は、最後の希望です。祖国の中には、民族も、氏族も、家庭も、個人もすべて含まれているのです。

 この三サム千チョル里(朝鮮半島の別称)が祖国になりましたか? そのようになっていないので、清算しなければなりません。神様が望まれ、イエス様と聖霊が望まれる祖国を創建するために、わたしたち全員が一イル片丹心シムで頑張らなければなりません。

 善というものは何でしょうか? 家庭のために個人が犠牲になり、氏族のために家庭が犠牲になり、祖国主権復帰のために氏族が犠牲になることが善です。祖国主権復帰のためにすべてが犠牲になって、祖国主権復帰が成し遂げられれば、すべての人が愛国の忠臣となるのです。国家的基準の前に忠誠を尽くして国家基準を立てれば、家庭、氏族の基盤を築いたという公認を受けるようになります。道義の基準とは、神様のために絶対忠誠することです。そのようにすれば、その過程のすべてのものは認められるようになるのです。

 わたしたちはどのようにすべきでしょうか? イエス様は「わが父よ、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」と言われました。ここにおいて、「わたしの思い」とは世の中の思いであり、 「父のみこころ」とは神様のみ旨です。統一教会員である皆さんは何をしましたか? 忠臣の道理を立て、またその実績を持ってきましたか? 孝子の道理を果たして、その実績を持って、個人、家庭、氏族、国家、世界的な闘争をする覚悟ができていなければなりません。イエス様は祭物の使命を持って来られました。皆さんは世界的な闘争をなしていきながら、民族的な基盤を築いていかなければならないのです。メシヤとの相対的な価値を備えなければならないのです。指導者が世界を開拓するところにおいて、指導を受ける皆さんは、民族的な道を築いていかなければなりません。数多くの人々が主権復帰の道を願いながら死んでいきました。いつになるとしても「必ず成る」という信念を持って死んでいったのです。

 統一教会員は、個人から民族、国家基準まで築いてきました。今からは、全世界の人類とすべての国家を動員しなければなりません。わたしたちは、祖国主権復帰、自由、平等、幸福の日を捜し出していかなければなりません。その道が困難であっても行かなければなりません。それが、わたしが望む観点であり、神様が望まれる基準です。イエス様はこの基準を望みつつ、歩まれている途中で亡くなりました。わたしたちは祖国主権復帰の過程において、苦労しながら行かなければならないのです。

 韓国は、わたしたちが責任を持たなければなりません。今日も明日も変わることのない祖国創建という覚悟と信念を持って、イエス様の祖国、聖霊の祖国、先知先烈ニョル(預言者と、義のために戦って死んだ烈士)の祖国、神様の祖国、その祖国を成せなかった恨を解かなければなりません。そうでなければ、面目が立たないのです。

 わたしたちは、祖国を取り戻さなければなりません。祖国を取り戻そうとすれば、祖国のために生きなければなりません。祖国のために生きることができない人は祖国を見いだすことができません。それでは、どのように生きることが祖国のために生きることになるでしょうか? 世界を自分の祖国と思って世界のために生きなければならないのです。そのような人は、祖国を創建することができます。食べること、寝ること、歩いていくこと、すべての生活と行動が祖国創建のためのものとならなければなりません。

 それゆえにわたしたちは、共産党から白昼、刃物で刺される覚悟をもって闘っているのです。この民族ができないときは、わたしたちがしなければなりません。この民族が行くことができなければ、わたしたちが行かなければならないのです。そのためには、だれよりも祖国を愛さなければなりません。ご飯を食べるのも祖国のために食べ、結婚するにしても祖国のために結婚しなさいというのです。わたしたちの祖国のためにです。

 今は、わたしが言えば、何でも聞くことができる群れが生じ、わたしが方向を提示すれば、動くことができる群れが生じましたが、これで幸福を感じる男ではありません。統一教会を犠牲にしてでも、祖国主権復帰を約束できる、そのような基台を広めていくのです。六千年摂理の中心的み旨として立てた家庭を、信奉することのできる教団と民族と国家がなければなりません。神様を信奉することができる、そのような基台を準備し、それが一時に連結することを願って送られたのですが、それが粉々に壊れたゆえに、再び収拾しなければならない運命が残るようになったのです。これを収拾するために先頭に立って走らなければなりません。

 夜になって寝床に入る時間にも、その願いの国とともに寝なければなりません。今は国がありませんが、その国の国民の一員として、その国のために眠るのであり、目覚めるときもその国を建国するための一員として眠りから覚めなさいというのです。見て、聞いて、感じるすべての感覚も、祖国という命題を思うことなくしては感じてはならないというのです。その日が来るまでは、死んではなりません。その日が来るまでは忙しいのです。そのことを成すためには、激しい受難と逆境を克服しなければなりません。

 成すべき仕事があれば、寝るのが遅くなったとしても解決しなければならないのです。祖国の主権復帰というものが時間を中心とした犠牲の量を加重させてこそ訪れてくるということを思うとき、自分の涙と精誠の量を、きょうこの時間を通じて、少しでも補充すべき責任があるのにもかかわらず、安らかに寝て、伸びをしながら起きられるのかというのです。起きては腰を曲げて「お父 様 あなたが訪ねていかれる明日の安息の住みかであり、あなたが行使されたかった世界を支配することのできる勝利的国家の基台に向かっていく、寂しく孤独な男の行く道が、このように悲惨であることを感じます。わたし自身がそうであるのに、天が訪ね求めてこられる道はもっと悲惨なのではありませんか? 」と、祈祷しなければなりません。

 疲れたといって思いのままに横になることができないのです。死んでも国のために死ななければなりません。それゆえに、年を取って疲労を感じる、そのような立場で、自分がもし死の場に行くとすれば、その場で残すことができる一つの願いが何かというとき、それは「天のためにできることはすべて果たした。その国のためにできることはすべて果たした」という言葉を残すことです。

 イエス様は「あなたがたは、何を食べようか、何を飲もうかと思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたはまず神の国と神の義とを求めなさい」と言われました。このように聖書の主流思想は国です。国、その国を求める思想なのです。自分の幸福を求める思想ではありません。国の民として生まれ、夫を持ったとしたならば、その夫は国を代表した夫です。ゆえに、国を愛した後に夫を愛さなければなりません。妻も国を代表した妻であるので、国を愛した後に妻を愛さなければならないのです。死ぬにしても「わたしがなし得る力をすべて果たし、わたしはこれ以上できないというその位置で死なせてください」と言えなければなりません。「これをやっておけばよかったのに」という言葉を残して死んではなりません。それゆえに、やってもやっても忙しいのです。行っても、また行かなければならないのです。ほかの人が休む時間に、わたしたちは一歩でもさらに進まなければなりません。「サタン世界よ、休んでいろ サタン世界よ、おまえは何もしないで遊び暮らしていろ。われわれはその国のために歩むのだ」と思わなければならないのです。

 南北統一を熱望する愛国同胞の皆さん

 特に女性の使命として、子女格である青年男女、および学生たちを、真の教育を通じて真の子女として復帰しなければなりません。

 さらに、母と子女が一つになって模範を示し、教育を通じて夫までも真の天の息子として復帰し、真の父母に従い、神様を中心に侍り、地上天国理想を復帰しなければなりません。

 改めて、きょうのみ言が、南北韓が共に真の愛で出会う、その日を早める汎国民運動になることを願いつつ、わたしの話を終わりたいと思います。

 神様の祝福が皆さんと皆さんの家庭に共にあることを祈願いたします。

 ありがとうございました。

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